[つぶやき]1.17….あの日….阪神淡路大震災

少し備忘録もかねて、当時の様子を。。。

当時、木造2階建ての一戸建てに、親と同居をしていました。
一階は親、二階は子供を含む私たち。

あの時間。。。。軽い揺れで目が覚めました。すぐ収まるだろうと横になっていたのですが、どんどん揺れが激しくなっていったのです。
頭の上で、木枠の窓が揺れで開いたり閉まったり、がんがん音を立てていたんで、それが落ちてこないかを心配していたのを憶えています。
子供達は二段ベッドで寝ていたんですが、フローリングの上で、ベッドを足を固定していなかったので、揺れに合わせて床を滑ってくれたおかげで転倒を免れました。
カミさんや子供はパニックになりかけていたんですが、まずは二階の全員の無事を確認した上で、明るくなるまでベッドの中に居るように指示をして明るくなるのを待ちました。

明るくなって、階下へ降りたとき。。というか、下りる階段がホコリとガラスで埋まってたんで、降りるのも一苦労。
階下というと、家具は倒れているは、壁は崩れているは、もう凄かったです。
親はというと・・・タンスが倒れて、向かいのタンスに寄りかかった下で横になっていました。奇跡としか言いようの無い状況です。
そんなわけで、我が家には、幸運にもけが人が無かったですが、周辺ではそれなりに色々会った模様です。
後日、損壊状況を確認してくれた人から「後1cm柱がずれてたら、二階部分が落ちていた」と知らされた時は、ゾッとしましたが。。。

ライフラインが寸断されたなかで、子供達も小さかったので、困ったのがお風呂でした。
ただ、兵庫県ってゴルフ場が多いんですよね。近隣のゴルフ場が一斉にお風呂をオープンにしてくれたのが嬉しかったです。
子供達は、広い風呂に入れるので、それはそれで喜んでくれていましたが(^ ^;
あとは、自衛隊の用意してくれた風呂です。自衛隊は水の配給も含め、ホントにありがたかったです。

明るくなって、家族の無事が確認できたら、気になったのが職場の状況。
当時、西宮北口に職場があり、自転車で通っていましたので、いつも通り今津線沿いを自転車で南下していくと、門戸厄神辺りで、着の身着のまま、頭から毛布を被った人等の一団に出くわしたのを憶えています。
それと、走っていて何か風景が違う。何が違うのかわからなかったのですが、何か空が明るいなと、ふと気がついたのが・・・高架がない!
そうなんです、今津線にかかっている国道171号線の高架が、線路の上に崩れ落ちてたんです。もうびっくりしました。
その時、地震のパワーにも興味がありますが、落ちる時にどんな音と振動が合ったんだろうって、そちらにも興味があります。

職場といえば、事務所が合ったマンションの周りが地盤沈下を起こしていて、30cmくらいの段差が出来ていました。
後から聞いた所では、古いマンションなんですが、岩盤までパイルを打ち込んでいたらしく、かなり頑丈に作られていたそうなんです。
事務所の中はというと、本入れに使っていた、かなりでっかい食器戸棚が1mくらい吹っ飛んでたり、パソコンが落ちてたり、まぁ予想通といえば予想通りだったんですが、元の位置に復旧させて掃除して、一日かかりました。その時は電気がついたんで、PCが起動してくれたのは幸いでした。
ただ古いマンションだったんで、漏電検査が終わるまでしばらく電気の利用を止められた事や、自宅の整理や周辺環境も含め、仕事を出来る状況ではなかったんで、しばらくは自宅待機という事に。。

後は、TVや新聞で報道されている状況が次々と目の前で展開されていきました。
その状況を見て、お袋が「終戦直後や」とつぶやいたのが、今も忘れられません。

この時期になると、決まって出てくるのが「風化をさせない」との文字。
当時生まれた子供達が高校を卒業するなど、例えば、ルミナリエが震災復興の為に開催されているというのを知らない世代が増えていく中、
・何を風化させないのか。
・風化させるとどうなるのか
・今はどうなのか
・これからどうするのか
などを一度検証してみてはどうかと考えてしまいます。
乾パンや手回し電灯なんかを入れた震災パックなんてありましたけど、今はすっかり見かけなくなりました。
思いでとしての「風化させない」イベントでなく、次の世代に繋がる知識、経験としての「風化させない」イベントに繋がって欲しいものです。

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